凄まじい文明とある程度の知能を持つことにより独自の進化を遂げたヒトという生物について
2005年9月30日 読書※以下の文は自分の創作文章です。自分の考え、しかも急いで書き連ねたので矛盾点もあるかと思いますが、そこはあまり気にしないで下さい。また約1000字程度ありますので、極度の本嫌いにはお勧めできません。
ヒトと人間と人間社会
あなたがそうであるように、ヒトと他の動物とは決定的な違いを持っている。そう聞いてあなたはどんな違いを思い浮かべただろうか。
様々な点を思いつきそうが、ここでいう違いとは、道具の使用、二足歩行、言語の使用などといった物理的な相違点では無い。ここで私が言いたいのは本能の抑制、つまり理性の存在である。これはよっぽどの事が無い限り(盲導犬など)他の生物には見られない。
本能ばかりに身を任せずに、理性を身につけたことにより、ヒトという一生物は人になったといっても過言では無い。
ではなぜ理性が存在するのか。また、理性とはヒトから人への変化において、また、進化するにおいて本当に重要だったのだろうか。この点は突き詰めて考えると非常に不思議な事なのである。
なぜならば、本能とは生物が、食物を手に入れたり敵から身を守ったりするという生命活動に直結したもので、いわゆるサバイバル能力である。これは生きる上で重要な作用を担っている。一方理性とはヒトが人になるための絶対条件である。
つまり、ヒトは本能をわざわざ理性に置き換えることは生きるための術を無くしてまで人間になったというわけだ。
一体ヒトは人間に進化することによりなんのメリットを得たのだろうか?
この事は理性のメリットを考える事により解き明かされていくのである。理性のメリットは他との衝撃を緩和することであろう。なぜなら、本能が自分を守るものであるのに対し理性とは他を思い、守るものだからである。本能と理性は常に相反する存在である。
人間というものにヒトが進化した理由も、争い・潰し合いなどといった他との衝撃を避けたかったからだろう。
では、今その理性を保った状態の人が構成する人間社会のままで人間は進歩し続けるのだろうか。私の考えでは断然Noである。
なぜなら、ヒトは理性を持ち、人となり、大きな社会を作り上げている。国家という単位でみれば、蜂や蟻も驚きの規模の社会であろう。では、なぜ大規模な社会で理性を保ってはならないのか。
それは、本能を失えば失うほど、他を気にし、思いやり、社会全体としてみれば、まとまりが強くなるが、社会の中にいる個人を見た場合、本能を失えば確実に生命力が弱まる。
そもそも大規模な社会のなかでの本能の衰退及び理性の発達というのは、甘い常識いわゆる「ぬるま湯」に浸かり、社会の指示を待ち行動する羽目になりかねない。
本能が全てだとは言わない。理性が悪いとは言わない。しかし、人間はもう少し本能を大事にすべきである。そうでないと巨大な社会だけが膨れ上がりそれを構成するヒトは中身のない空っぽな人間に成り下がってしまう事は間違いない。
ヒトと人間と人間社会
あなたがそうであるように、ヒトと他の動物とは決定的な違いを持っている。そう聞いてあなたはどんな違いを思い浮かべただろうか。
様々な点を思いつきそうが、ここでいう違いとは、道具の使用、二足歩行、言語の使用などといった物理的な相違点では無い。ここで私が言いたいのは本能の抑制、つまり理性の存在である。これはよっぽどの事が無い限り(盲導犬など)他の生物には見られない。
本能ばかりに身を任せずに、理性を身につけたことにより、ヒトという一生物は人になったといっても過言では無い。
ではなぜ理性が存在するのか。また、理性とはヒトから人への変化において、また、進化するにおいて本当に重要だったのだろうか。この点は突き詰めて考えると非常に不思議な事なのである。
なぜならば、本能とは生物が、食物を手に入れたり敵から身を守ったりするという生命活動に直結したもので、いわゆるサバイバル能力である。これは生きる上で重要な作用を担っている。一方理性とはヒトが人になるための絶対条件である。
つまり、ヒトは本能をわざわざ理性に置き換えることは生きるための術を無くしてまで人間になったというわけだ。
一体ヒトは人間に進化することによりなんのメリットを得たのだろうか?
この事は理性のメリットを考える事により解き明かされていくのである。理性のメリットは他との衝撃を緩和することであろう。なぜなら、本能が自分を守るものであるのに対し理性とは他を思い、守るものだからである。本能と理性は常に相反する存在である。
人間というものにヒトが進化した理由も、争い・潰し合いなどといった他との衝撃を避けたかったからだろう。
では、今その理性を保った状態の人が構成する人間社会のままで人間は進歩し続けるのだろうか。私の考えでは断然Noである。
なぜなら、ヒトは理性を持ち、人となり、大きな社会を作り上げている。国家という単位でみれば、蜂や蟻も驚きの規模の社会であろう。では、なぜ大規模な社会で理性を保ってはならないのか。
それは、本能を失えば失うほど、他を気にし、思いやり、社会全体としてみれば、まとまりが強くなるが、社会の中にいる個人を見た場合、本能を失えば確実に生命力が弱まる。
そもそも大規模な社会のなかでの本能の衰退及び理性の発達というのは、甘い常識いわゆる「ぬるま湯」に浸かり、社会の指示を待ち行動する羽目になりかねない。
本能が全てだとは言わない。理性が悪いとは言わない。しかし、人間はもう少し本能を大事にすべきである。そうでないと巨大な社会だけが膨れ上がりそれを構成するヒトは中身のない空っぽな人間に成り下がってしまう事は間違いない。
コメント